太宰治の「走れメロス」を久しぶりに読みました。学生時代に最初読んで、その後も何度か読み返しているのですが、それにしても、10年以上は読んでいませんでした。
古い本がどこかに紛れてしまって見つからないので、今回は角川文庫版の「走れメロス」を購入。
ところで、実はこの記事の以前のタイトルは、「太宰治『走れメロス』の文章力は?」でした。
少し変だと思いませんか。
太宰治といえば教科書にも載っている偉い作家なわけですから、文章力があるのは当然だろう、と考えるのが普通です。ところが、あえてタイトルの最後に「?」をつけてしまったのですから。
けっこう、私は真面目に語っているのです。
太宰治は、本当に、文章力があるんでしょうか?
「走れメロス」を大人になってから読み返すと、誰でも、少なからず奇異な印象を受けると思います。
教科書に載っていた記憶があるから名作であるはずだけれども、名作と呼ぶには何か物足りない、かといって、駄作ではなく、確かに魅力的なのだけれども……。
食後、喫茶店で本を開いたのですが、一気に読み終えました。といっても、「走れメロス」は、20ページにも満たない短篇なので、一息に読めても何ら不思議はないのです。
【動画】太宰治「走れメロス」の文体から、ブロガーが学ぶべき点とは?
驚いたのは、文体のスピード感です。タイトルのとおり、主人公のメロスは、約束の刻限までに帰るために走りに走るので、文体がダラダラしていたら、読者は物語に感情移入できなくなってしまいます。
速い。本当に速い。
メロスが走るのと同じくらい、太宰の文体は速いのです。
太宰治という作家の型破りな文体、その自由奔放さは貴重です。
結論から言うと、太宰は文章力があります(笑)。ただ、文章力といってもいろいろあるわけです。
比喩を巧みに操る絢爛豪華な文体ではなく、透明な抒情性の底から美しい音楽が聞こえてくる文章でもなく、端正で威厳に満ちた格調高い言語空間に浸れるわけでもありません。
太宰治は太宰の文体で書いているわけではなく、「走れメロス」という小説に最も合った文体で書いているのです。
ひたすら走る主人公にジャストフィットした、軽やかで、リズミカルで、スピード感のある文体を、ものの見事に書き切っています。
作家は、作品によって文体を書き分けると言われますが、実際には上手く書き分けられない作家がほとんど。ワンパターンの文体で書き続けている作家の方が多いのではないでしょうか。
正直、「走れメロス」は、その妙に軽すぎる、スピード感あふれる文体を取ってしまったら、その他には特には魅力が見当たらない作品です。状況設定も安易ですし、文学作品としての深みに欠けます。
ただ、「走れメロス」のような文体を書き切った作家は他にはいないことも確かです。
太宰治という人は、作家というよりも、コピーライターに近い言語感覚の持ち主のように感じます。独創的な文学世界を構築したというより、コピー、カバー、アレンジが上手いのですね。
「走れメロス」の最後に「古伝説と、シルレルの詩から」とありますが、この「走れメロス」の魅力は、歌で言うならば、「編曲の巧みさ、アレンジにおけるセンスの良さ」以外の何ものでもありません。
太宰治は、揺るぎない作家としての思想的な軸は持ちえなかった、いや、持っていたらとても書けない、そう思うほど、柔軟で、軽い、テンポの良い文体を書いたライターでした。
マスコミがない時代でしたから、作家・太宰治でありえたのですが、現代のようなネット時代ですと、2ちゃんねるなどのネタにされてしまい、作家として偶像崇拝されることもなかったのではないかと思われます。
太宰治は、言葉に対するセンスの良さだけで書いている気がしてなりません。
話を戻しますと、「走れメロス」の文体ですが、何といってもその魅力はスピード感にあります。
スピード感あふれる文体を実現するために、太宰はどんな工夫をしたのか、それについて考えることは、「言葉の力を再発見する」という目的を持つ当ブログ「美しい言葉」にとって有意義だと思います。
「走れメロス」の文体にあるスピード感の秘密。
1)一文が短い。
これほど一文が全体に短い小説は他にはないのではないでしょうか。一文の平均文字量をデータ化したら、世界一短いかもしれません。
2)省略しまくる。
一文を短くするためには、省略できるものは、極限まで省略しています。主語はもちろん、接続詞、助詞、目的語に至るまで、省くという徹底ぶりです。
「急げ、メロス。」(P.181の2行目)は、動詞と人名だけ、「あっぱれ。」(P.183の5行目)に至っては形容動詞一語ですから。
3)軽さ
文章は重くするよりも、軽くする方が難しいのです。太宰の文体の武器はその「軽さ」にあります。太宰が発する言葉は羽毛でできているのではないかと思うくらい、奇妙なほど軽いのです。
問題はなぜ「軽い」かですが、「走れメロス」の場合は、その饒舌口調的な文体のせいだと思われます。
「走れメロス」は三人称で書かれていますが、感情の表出は一人称的な独白口調が採用されています。本当にメロスは、言葉が堪能です。
だいたいからして、本当に単純で、正直者は、こんなに次から次への言葉が出てきません。ペラペラ、喋りません。
しかし、結果として、メロスのこの「しゃべりすぎ」が軽さを生み出し、妙な親近感を与えてくれるから不思議です。
4)リズム感
一文を短くするだけでは、スピード感は出てきません。切り詰めるところはぎりぎりまで切り詰めかたと思うと、前後では調子を微妙に整えています。
またリズム感を出すために、同じ言葉を繰り返したり、語尾をそろえて韻を踏ませたりもする周到ぶりです。
少し引用してみましょう
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。(中略)ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生まれた時から正直な男であった。正直な男のままに死なせて下さい。
「ああ、陽が沈む。ずんずん沈む」とかって、なかなか書けませんよね。ふつうは「どんどん沈む」でしょうし、「ずんずん」なら「進む」でしょうから。
こういうあたりが、太宰の文体の非凡さだと言えそうです。
「走れメロス」の語尾変化だけを見ても、その文体の巧みさに舌を巻かざるを得ません。
長くなり過ぎたので、「走れメロス」については、これくらいに致します。最後に、まとめです。
当ブログ「美しい言葉」のテーマの一つに、「Web文章をどう書くか?」があります。
実はブログの文体に最も求められる要素、それはスピード感を含めたリズム感なのです。
リズム感のある文章を書く(文体を自在に扱える)ブロガーは、極めて少ないという現状があります。実は読者が最も期待している文体なのに、それができている人が少ないので、この点を意識的に強化すべきです。
その意味で、太宰治が「走れメロス」で完成させたスピード感とリズム感に富んだ文体から、ブロガーが学ぶべき点は多いと言わざるを得ません。